「戻ってきた」という声と同時に、医師と看護師がバタバタとやりとりしている様子が視界にとびこんできた。フィールドワークをはじめてからもっとも“死”に近づいた2014年の年末と、その原因となったインドネシアでの調査についてノートした。

 

201411月、琉球大学のY先生を中心としたインドネシアの淡水魚の研究チームの一員として、スラウェシに降り立った。それまでY先生の研究チームは、スラウェシを中心としたインドネシアの淡水魚の分類・系統学的調査をおこなっていた。実は、赤道直下のスラウェシは、淡水魚類の多様性の宝庫として知られ、とくに、彼らがみせる鮮やかな体色は、研究者のみならず、熱帯魚ファンの間では知られた存在だった。僕がチームに加わったのは、ちょうどY先生の研究チームが、インドネシアの淡水魚の体色研究を始めるタイミングだった。動物の体色研究にマストな分光計測と色覚モデリングが僕の役割だ。陸上動物の体色の研究経験はそれなりにあったが、水中の生物を研究対象にするのは始めてのことだった。そこで、仮想スラウェシ調査として、沖縄のヤンバルで、調査機材の微調整や、調査の予行演習をおこない、準備は万全で出発した。はじめての海外フィールドワークでもなく、東南アジアでのフィールドワークはすでに経験していたので、特に心配することはなく、ただただ楽しみにしていたのを覚えている。

 

インドネシアの玄関口・ジャカルタに到着して受けた最初の洗礼は、2日目の夕ご飯の小型爆弾(唐辛子:右写真)による腸内細菌の大虐殺だった。特に辛いものが苦手というわけではないのだが、体に合わなかったのか、余程ひどい貧乏くじを引いたのか、まともに食事をとれるようになるまで、数日かかった。ビザ取得までの待ち時間として滞在したボゴールでのはじめの数日は、ホテルのトイレでの記憶しかない。しかし人間の体はよくできているものだ。小型爆弾の爆撃から運よく生き残った腸内細菌くんたちが増殖のか、数日後には、恐ろしく辛いインドネシア料理に適応した胃腸ができあがった。それにより、大好きなビールと共に、露店などでインドネシア料理を心ゆくまで堪能することができるようになった。

 

実は、これは、海外フィールドワークではよくあることで、体を現地仕様にするために必要な通過儀礼のようなものだ。稀に馴化のいらないストロングマンもいて、現地のなま水をゴクゴク飲んだりできる人もいる。個人的にだが、この行動はフィールドワーカーとしての能力を誇示するディスプレイのようなもので、それを見ると、少なくとも僕は劣等感にさいなまれる。たまに経験の浅い研究者が、自分もストロングマンであることを誇示したいのか、そうした行動を真似して大惨事を起こすのだが、そういう彼らを、少し揶揄した表現でブレイブマン(ただ勇敢なだけのバカ)と呼んだりする。話が逸れてしまったが、それ以降、お腹を壊すことはなかった。インドネシアの事情通の知り合いからは、トビラのあるレストランの料理は食べても安全、トビラのないレストランの料理は自己責任でと説明を受けていたが、僕は好んで後者を選んでいたにもかかわらず。また食事といえば、インドネシアは様々な文化をもった多民族国家なだけあって、地域ごとに同じ名前の料理でも味付けが変わり、ご飯のお供として活躍したサンバルもその材料の配合が地域によって変わるようだった。いま自宅の冷蔵庫で常備している自家製サンバルは、スラウェシ南東部のムナ島のレストランで教えてもらった味がベースになっている。

 

ジャワ島のボゴールからマカッサルを経由して、今回の調査地、スラウェシ南東部の都市クンダリに到着した頃には、僕の外見もだいぶ変わっていた。クンダリのような市街地ではみることのなくなった男性用スカートと、ジャパニーズステテコのコンビネーションで着飾った僕は、奇異な存在として、かなりの人目を集めていたようだった(写真は調査地移動中、荷物がとにかく多い)。インドネシア人のフィールドアシスタントJさんが一緒に歩くのを恥ずかしがったりしたこともあったので、大げさな表現ではないと思う。ただ、このファッション、田舎では恩恵をもたらす。どうやら、流行の現代的ファッションの若者を好ましく思わない世代は、自分たちの文化をリスペクトしていると感じてくれて、歓迎してくれるのだ。都市部と違って田舎での調査では、ホテルなどがないので、とりあえず泊めさせてもらえる民家を探さなければいけない。また民家では、賄いご飯をつくってもらったりするので、快適な調査生活を送るためには、現地の人の心を掴むのはマストなのだ。

 

クンダリから船で数時間の場所にあるムナ島では、昔、島を治めていた元国王の家に宿泊させてもらった。現在の当主は、元国王の息子にあたり、非常に威厳のある方だった(と書くことにする、ここでは)。またこのムナ島に来た外国人が、中華系を除くと、はじめてだったこともあり(現地の人にそう言われたが真偽は不明)、島のいたるところで歓迎された。ムナ島では、あとからの合流組を含めてチームのパーティが9名にまで膨れあがっていたので、移動がとくに目立った。そのため調査を始めるとすぐに人だかりができてしまい、チーム内で、現地の人とのコミュニケーション班と調査班と役割を分担する必要があったくらいだ。とくにチーム唯一の日本人女性のAさんには、コミュニケーション班の代表として、写真サービスなどの活動、そう、まるでアイドルのよう!を担当してもらった(多分、まんざらでもなかったと思う)。一方、調査班の僕のファンは、小学生くらいの子供たちだけだった(かなり不満足)。左の写真は調査に同行、ボディーガードをしてくれた現地の警察官(名前を忘れてごめんなさい、最高の友人)。右の写真は、僕のファンクラブの会員 No1~4 みんないい子だった。

 


 

インドネシアは、国民の多くがムスリムだが、地域によっては、歓迎の意を込めて、お酒を飲み交わしたりもする。ある田舎では、灯油タンクに入った密造酒(?)のような怪しいお酒を振舞われた。もともと僕は二日酔いをしない体質なので、翌日、変な頭痛がした時は、昨晩、何を飲まされたのか心配になったりした。ある田舎ではやたらアルコール濃度の高いお酒を飲みすぎて、失敗したこともあった(皆さま、ご迷惑をおかけしました)。しかしインドネシアの多くでは、日本に比べて、アルコールはオープンな存在ではない。都市部の中華系スーパーでは普通に売られていたり、コンビニでは曇りガラスの専用冷蔵庫に置かれていたりするが、クンダリのような地方都市になると、彼らを見つけるのがやや難しくなる。だいたいメイン通りから少し離れた寂れたところに彼らを扱った店がある。やはり中華系の方が営んでいることが多い印象だ(おそらく宗教上の関係)。こうした場所を発見するコツは、ムスリムではなさそうな現地の人に声をかけて、友達になる、そしてバイクの後ろに乗せてもらってお店まで連れて行ってもらうことだ(これはマレーシアでのフィールドワークですでに取得済みテクだった)。さらに難易度が高くなるのが、ほぼ100パーセントの住民がムスリムな地域の田舎町だ。少なくともアルコールを販売している店はない。ただ、それでも奴らを見つけることはできる。隣か、さらにその隣町との間をつなぐ幹線道路などに、お酒をストックしているカラオケ屋があるのだ。ちなみに、やっとの想いでゲットしても、カラオケ屋では飲みたくないし(インドネシアのカラオケ屋がどういう場所か知っている方もいると思う)、街中や滞在先の部屋でも飲めない。そんな時は、小船をだして誰も見ていない船内でこっそり飲むことにしていた。写真は、ビール片手に小舟の屋根に乗って海賊王を気取っている僕の後ろ姿。

 

この年の調査は、スラウェシ南東部を中心に1.5ヶ月ほどおこない、100点とまでは言えないが十分な成果をあげて帰国した。ここでは書ききれないこともたくさんあったが、本当に貴重な経験ができた。チームに誘ってくれたY先生にはいまでも感謝している。帰国数日後に、京都に住んでいた当時の彼女(現在の妻)が沖縄に遊びに来てくれることになっていたので、インドネシア調査のサンプルやデータ整理を急いでおこなった。せっかくなのでクリスマスからしばらくは、2人でゆっくりするつもりだった。しかし、このあたりから記憶が怪しくなってくる。断片的な記憶だが、彼女を車で空港まで迎えに行ったのだが、車を降りて空港の中まで迎えに行くことができなかった。空港から家に向かってドライブし、途中、買い出しをしようとしたのだけれど、車から出ることができず、彼女一人で買い物をしてもらった。その時、1日か2日、何も物を食べていなかったことに気づいた。体の倦怠感が抜けない。37度程度の微熱がある。学生の時に所属していた研究室のM先輩の話を思い出した。たぶん、マラリアだ。

 

インターネットで検索し、現在、スラウェシでは、一番危険な熱帯性マラリアが発生していないことを確認。自分の症状を考えても、あっても3日か4日熱マラリアの方かなあと、そこは自分なりに冷静な判断をして、病院へ。血液検査を受ける。インドネシアのジャングルで調査をしていたことを説明すると、マラリアだけでなく、当時、日本を騒がせていたデング熱などを含めた様々なウィルスについても検査することになった。その日は、平静を装い「たぶん3日か4日熱マラリアなので検査結果が出たら薬をお願いします」と医者に伝えて帰宅した。確か翌日だったと記憶しているが、一部の検査結果が明らかになり、マラリアが陰性であることが判明した。念のため、再度、血液検査。まだ気丈に振る舞い、帰宅。翌日、またもマラリア陰性、他のウィルスも陰性。そして検査結果の説明を受けている最中に、意識を失う。このコラムのはじめの「戻ってきた」の声を聞くのはその数秒後のこと。後日、病状が回復したあとに説明を受けたところ、血圧が低くなりすぎて意識が朦朧となったところに、急いで点滴をうってもらったとのことだった。推測するに、「戻ってきた」は、血圧が戻ってきたという意味だったと思う。また、その時、病気の症状が全く分からず、それまで張り詰めていた緊張の糸が途切れてしまったのだと思う。医者からは、危ないので入院してくださいと促され、入院することに。病室は、肺炎などの感染症患者さんのいるフロアーのナースステーションの横の部屋に。その頃には、熱も3839度を行き来するようになっていたが、同室の患者さんが代わりに売店で買い物をしてくれたり、彼女にも感謝しきれないほど看病してもらったり、したらしい(と何度も説明された)。しかし、ものをほとんど食べられないので、症状は悪くなるだけだった。

 

ある朝、医師から、「レプトスピラ症の疑いがあるので、抗生物質を点滴します」と説明された。病室にいた彼女に聞く限り、レプトスピラの説明を受けて、何かの書類にサインしたみたいだったが、この記憶がほぼない。そして抗生物質を投与されて、その日の午後か、翌日か、翌々日か、異常な寒気を感じた。ナースコールを押して、寒い、寒い、と叫ぼうとしたことは覚えている。だんだん横隔膜をうまくうごかせない感じになり、呼吸が難しくなっていった。医師がきた時には、僕は、誰もが一度は見たことのある映画のワンシーンのように、“ベッドの上で体をバタバタと激しく撼わしていた”らしい。何か処置してくれたのだと思う。症状が少し治まった頃に熱を測ると41度強。いま振り返ると、これが僕のフィールドワーク人生で、もっとも死に近づいた瞬間だったのではないかと思う。本当に死が近づいたときは、案外、自分では「死ぬな」とかわからないものだと勉強になった(意識が朦朧としているから)。

 

ちなみにレプトスピラ症とは、人獣共通の細菌感染症で、獣の尿から排出された細菌が、サンゴ礁が隆起した地形などにあるアルカリ性の淡水湖・池のなかで、ヒトに経皮・経口感染するらしい。僕は、インドネシアでそういう池に、魚を捕まえるためにかなり潜っていた。水もかなり飲んでいる。医師の話によると、同年の夏に、沖縄でも在日米兵が訓練中にレプトスピラに感染・発症し大ニュースになったらしく、それもあって、今回、レプトスピラ症と疑ったということだった。また血液検査の時にわかったことだが、貧栄養状態が長く続いていたようで、感染した時に発症しやすい体調だったと思われるとのことや、高熱が出たのは、抗生物質により、体内の細菌が一斉に崩壊して毒素が血液中に放出されことが原因だろうとのことだった。

 

 

 

 

最後の高熱がおさまると、何もなかったように五感が戻ってくる。

 

自分の臭さに驚く。トイレをどうしていたのか恥ずかしくなる。シャワーを浴びると、病室、もしかしたらフロアー全体が病人臭できついことに気づく(僕は嗅覚がかなり敏感だ、それはまたの機会に説明)。僕のことを気遣ってくれていた同室のおじいさんが、とてもじゃないけれど、何かお願いできるような患者さんではないことに驚く。僕のいたナースステーション横の病室とは、つまり、かなり危険なグレードの患者のいる病室なのだ、僕もおじいさんも。その夜は、病室の内外から聞こえてくる患者さんたちの苦しそうな声でほとんど眠れなかった。

 

 

 

 

今回、昔の記憶を整理しながら、勢いでこのノートを書いてみた。まだ完成していない文章を読み返してみると、インドネシアへ旅立つ時から、フィールドでの生活を思い出す限り、節々に、油断や慢心が見え隠れする。他人を揶揄するつもりで書いた表現だったが、僕はストロングマンと勘違いした、、、反省している。ただダメージを受けた筋肉と内臓が回復するまでの数ヶ月のリハビリ期間を、禊としたい。ただし、この件で良かったことも。授業や講演で使える鉄板ネタが1つ増えたことだ(血は汚くなったけれど、献血に参加できなくなったけれど)。

 

最高のパーティ、お揃いのTシャツで、インドネシアスラウェシ島での1枚。入院中の写真は全くない、時に、フィクションと疑われる。

 

持田浩治

 

長崎総合科学大学

総合情報学部

生命環境工学コース

准教授 

〒851-0193

長崎市網場町536

 

京都大学

野生動物研究センター

特任准教授

〒606-8203

京都市左京区田中関田町

2-24 関田南研究棟

 

 

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